Akiko Shimoju
1936(昭和11)年、栃木県宇都宮市生まれ。1959(昭和34)年、早稲田大学教育学部国語国文科卒業後、NHKに入局し、アナウンサーとして活躍。1967(昭和42)年、ラジオ番組で流していた自作の詩や物語『もうひとりのあなたへ』が評判を呼び出版される。1968(昭和43)年、同局を退社し民放キャスターに転身。以後、執筆活動に入る。2015(平成27)年、『家族という病』(幻冬舎新書)が63万部を超える大ベストセラーに。『純愛―エセルと陸奥広吉』(講談社)、『鋼の女-最後の瞽女・小林ハル』(集英社文庫)などのノンフィクション、短編集『蜃気楼(ミラージュ)』(近代文芸社)、エッセイ『極上の孤独』(幻冬舎新書)、『人間の品性』(新潮新書)など多数。
~取材までの道のり~
2015(平成27)年のこと。テレビで「家族は1つのグループではなく、個の集まり」と話している人がいた。それが『家族という病』(幻冬舎新書)を出版した作家・下重暁子さんとの出会い。
フリーライターとして生きる自分。結局好きに生きてはいるものの、心配している両親から反対され常にどこか後ろめたさがあった。そんな時にテレビを観て「自分の人生を生きよう」と思い、心が軽くなったのだ。
『家族という病』は63万部を超えるベストセラーになった
2018年秋に取材の交渉をすべく、下重さんが出演する詩人・金子兜太(とうた)のイベントへ。自席の2つ前に下重さんが着席。だが登壇前でさすがに声を掛けられず。 1年後。「Rockな人々」で取材したイラストレーター・田村セツコさんと話していると、「下重さんが句会仲間」と判明。セツコさんにお願いして取材を申し込むと、まさかのOK。
ついに、4年越し(取材当時)の願いがついに叶う!
予想外のスタイルで下重さんが登場!
取材当日。約束の店前で待っているが、下重さんは現れない。そこで席に戻ると、店の裏側にあるドアからサングラス姿の女性とすれ違う。よーく見ると・・・
下重さんだ。ロックを体現しているかのようなスタイルにびっくり!Photograph by Hiroko Muto
予想外の“ロックファッション”に先手を取られた気分だ。
-自分で言うのも何ですが、どうして「Rockな人々」の取材を受けてくださったんですか? Rockっていうのが好きでひっかかったの。「Rockな人々」っていうタイトルじゃなかったらやらなかった。私、若い人は大好きなのよ!それに、自分が必要とされているところがあればね。
-Rock(というタイトル)にして本当によかった・・・。
早速取材を始めていきますね。下重さんのお父様・龍雄さんは軍人だったとか? そう。父は芸術家肌で絵描き志望だったの。でも祖父も軍人だったから泣く泣く諦めた。
軍服姿が凜々しい父、何を見つめているのか気になる兄と下重さん、着物姿が美しい母
当時、毎朝馬が迎えに来ていたんです。父は長靴(ちょうか:革のブーツ)を履いて、マントを翻して馬に乗る姿がカッコよかった。毎朝馬にニンジンをあげるのが楽しみでね。
父・龍雄さんと母・雅子さんが旅順日本と離れ、2年間100通ほどの手紙を交わし結婚するまでを書いた『母の恋文』(KADOKAWA)
同書では父と母が再婚同士であり、4つ上の兄は先妻の子どもだと書かれている。母は7年間結核の前夫を介護した後死別。子どもはなかった。だからこそ家庭に対して並々ならぬ想いがあったのだ。母と兄に血のつながりはなかったが、下重さんと同じく強い愛情を注いでいた。
-お母様は短歌や文学などが好きな文学少女。2通目の手紙で「私の龍男様」と書くのがかわいらしくて思わず微笑んでしまいました(笑)とても情熱的ですね。 母は毎年雪が3~4mも積もる豪雪地帯・新潟県上越市の出身。だから鬱屈した情熱が育ったのかもしれない。
「父も母も本が好きだった」「絵描きになるならなんでもしてやると父に言われたけど、反抗していたから。でも絵を見るのは好き」と下重さん。
ちなみに「兄とは昔よく遊んでいたが、読んでいた本などは影響を受けてはいない」とのこと。
当たり前だが、両親や兄弟の影響をすべて受けるわけではない。逆に「自分はやりたくない」と思う場合もある。何を好きになるか、何を選ぶかは自分次第だ。
自分と向き合い、自我を育んだ療養時代
戦時中、下重さんは奈良県信貴(しぎ)山頂にある三楽荘(現・信貴山観光ホテル)の離れに縁故疎開した。三楽荘は皇族用に建てられたもの。トイレには畳が敷いてあったというから、どれだけ立派だったのかがわかる。
下重さんは小学校2~3年のころ、肺門リンパ線炎(結核の初期症状)を患い療養していた Photograph by Hiroko Muto
ベッドの代わりに卓球台にふとんを敷き、1人で安静にする日々。微熱はあるが、痛みがあるわけではない。寝ていないと「熱が上がる」と怒られる。だから隠れて芥川龍之介、太宰治、宮沢賢治、小川未明などを愛読し、アンリ・ルソーの画集などを眺めていたという。
最初、毎日熱を測るのは憂鬱だった。でも段々ね、平熱だとつまらなくなってくる。母や医者を心配させるために熱を上げたりして。
-つまらなくなってくる!(笑)子どものころは「親の気を引きたい」のはありますよね。 病気によって自分と向き合ったり、自我が育まれたりということはあるんでしょうか?
まったくそうです。だってほかに誰もいないんだから、自分と向き合うしかない。
でもね、孤独って本当にありがたいこと。この世の中は忙しくて自分と向き合う時間なんか持てないけど、ばっちり2年もあった。それも感受性の強い時にね。
「療養していた時、一番身近な友だちはクモだった」と下重さん。ふとんの上で寝ていると、廊下の隅や間仕切りの上にいる1匹のクモが目に入る。クモは姿を見せたかと思うと、華麗な技であっという間に網を完成させてしまう。
「日本では、クモのアクセサリーはあまり売ってない。だから見つけた時すぐに買ったの」というアルマーニのアクセサリー Photograph by Hiroko Muto
獲物なんていつかかるかわかんないから、クモは網の端で身を潜めてずーっと待ってるの。獲物がかかると飛びつく。待っているエネルギーってすごいですよ。
だから私、待つのは平気。80歳近くでベストセラーが出るまで焦らなかった。
-病気の時、「いつ治るんだろう?」と考えることは・・・ 考えなかった。だって、病気以上に戦争という異常事態でしょう? 信貴山頂から市内へB29が爆撃に行くのを見ているわけ。終戦の前日まで爆撃されたのよ。
当時は「軍人の妻や娘はレイプされる」と言われていた。お母さんは下重さんを連れて家の中の五右衛門風呂へ。
「何かあれば中に入りなさい」と下重さんに白い粉(青酸カリ)を渡したという Photograph by Hiroko Muto
-後で青酸カリとわかった時、どう思ったんですか?
「ああやっぱりな」と思いました。軍人は「辱めを受けるなら死ね」という誇りがあるから。
父方の祖母は旗本なんです。だから“恥と誇り”に価値がありました。うちは代々明治維新・戦後と、時代が変わる時に大没落。今でも私の中では“恥と誇り”は大きいですね。
敗戦後、教科書は墨で塗りつぶされ大人たちの態度や発言は一変した。それを見て「大人は信じられない」「これからは自分で生きていく」と決意。下重さんは小学校3年生、9歳だった。
わずか9歳の時に「自分で生きていく」と決意するとは、すでに“ロック”の片鱗が見える Photograph by Hiroko Muto
決意の背景には療養中に2年間しっかりと向き合い、自我が確立していた点があるのではないか。
―両親との対立と葛藤―そして思春期
戦争が終わると下重さんの体調は回復し、小学校3年生の時に復学した。 一病気が治って復学する時、学校で人間関係をどうやって構築したんですか?
構築なんて全然できない。今も人間関係は苦手。
一幼少期から高校生まで仙台・富士宮・千葉・静岡・大阪と各地を転々とした影響は? それはあるわね。友だちになってもすぐ転校。それが悲しくて、友だちはつくらなかった。
新制中学は設備が整っていなかったため受験し、私立樟蔭中学に進学。当時、学校には京大卒という才媛の先生がいた。
先生は母校の名門・大阪府立大手前高校を勧め、学年1位2位の成績だった下重さんと友だちに特別補講をしてくれたという Photograph by Hiroko Muto
敗戦後、軍人だった父・龍雄さんは公職追放になった。民間企業に就職するもうまくいかず、母・雅子さんに手を上げることも。ちょうど反抗期だった兄と父は折り合いが悪く、衝突し東京にある祖父母の家へ。
当時はできる限り、父とは顔を合せないようにしてたんです。父に従う母も許せなくて。“暁子命”で私に熱中する母に「あなたの生き方は間違ってる」と糾弾したこともありました。
父に対する尊敬と憧れ。それが強かった分、仕事がうまくいかなかったり、家族に手を上げたりする姿を見るのが辛く、反発することにつながったのかもしれない。
母は再婚相手である父との間に「女の子がほしい」と熱望していた。そのため下重さんに思い入れが強かったのだろう。女学校時代はとても優秀で「自立して何でもできるのに」「父に従い、暁子に熱中しているのがもったいない」という母への想いもあったのではないか。
両親との衝突と葛藤。それは「子どもと大人の狭間で心が揺れる思春期」というのもあったのだろう。
「おしゃれは自己表現の原点」自作の制服で通った高校時代
下重さんは大阪府立大手前高校に進学。両親との衝突を避けるように家を離れ、知人宅より通った。
ところで、高校時代は「自らでデザインした制服で通っていた」という逸話は本当だろうか。 そうよ。制服がダサくてイヤだったから。おしゃれは自己表現の原点ですよ。“きれい”というのはまた違う。自分が気に入るかどうか。
近所の仕立屋にオーダーして「濃紺の布でダブルの上着をつくり、元の制服のスカートのひだを増やす」徹底ぶり!
ふと、自分が中学生のころを思い出した。中途半端なノーカラーの上着とベストの丈に耐えきれず、元に戻せないようにと切り、縫い詰めたら母にあきれられたのだ。
制服はほぼ毎日着るもの。だから「少しでも自分に合うように」と、カスタマイズしたいという気持ちは理解できる。
髪の毛のカールにこだわりと品のよさを、ふとした表情に繊細さを感じる高校時代 その後、早稲田大学教育学部国語国文科に進学。だが、大学生活を謳歌する学生にまったく馴染めなかったという。思い悩み「ノイローゼではないかと精神科を受診した」と聞き、本当に驚いた。ちなみに診察結果は「その度に異常なし」だったそうだ。
とはいえ、早稲田祭で盟友・芥川賞作家の黒田夏子さんの脚本で朗読した。冬には黒ずくめ+毛皮付きブーツの最先端ファッションで通学し、「小悪魔」と呼ばれていた伝説も!学内では、かなり目立つ存在だったと推測する。
テレビ創世記のNHKへ
大学卒業後、下重さんは活字に携わりたいと出版社や新聞社を希望していた。しかし女性の募集はなく、学生課に募集が張ってあったNHKを受験。五次試験まで突破し、NHKに入局した。
麗しいNHKアナウンサー時代
目元には知性と大胆さが表われている
のちに、女優になった故野際陽子さんは下重さんの1年先輩だ。当時どう思っていたのか。 野際さんはきれいだし、なんでもできる。すごいな、この人って。最初は野際さんのマネをしてたの。でもそれは私じゃない。だから野際さんとはすべて違う発想をしようと思ったの。 優秀な人が近くにいると「自分はできない」と落ち込むこともある。だが「すべて違う発想をする」と決意し、自分のスタイルを確立するのは下重さんらしい。
きれいにセットされたヘアスタイルと仕立てのよいワンピース、テーブル上の高級そうなフルーツ。「優雅」という言葉がぴったり!
つき合いが苦手という下重さんだが、NHKという大組織ではどのように過ごしていたのか。 最初は誘われると食事やお茶にも参加していたが、段々と行かなくなり、1人で原稿を書くようになったそう。 アナウンサーといえば今も昔も花形の職業だ。しかし下重さんにとっては希望する仕事ではなく、最初は嫌だったという。しかし「会社にいる8時間は1日でも大半」「だったら少しでも楽しみを見つけよう」と、番組の冒頭の10秒で毎回違う挨拶をするようになった。
23時から放送していた『夢のハーモニー』というラジオ番組で自作した詩や物語が評判を呼び、1967(昭和42)年『もうひとりのあなたに』として出版された。当時のことを尋ねると「それはうれしかった」と下重さんは語る。
デビュー作『もうひとりのあなたに』(大和書房:下重さん所有)には若い女性や少年、キツネや芋虫などを主人公にした詩や短編が掲載されている。時に切なく、時に美しく残酷、幻想的な世界に引き込まれる。
章の合間には横書きでおすすめの曲が書かれているのも斬新!
その後、9年勤めたNHKを退社し、民放のキャスターに転身したが、番組は1年で終了。プライベートでも大恋愛の末、恋人と別れることに。仕事も5年ほどうまくいかなかった。
「物書きで生きる」と決意し、どんな仕事でも受けた
一当時はどういう気持ちだったんですか?
気持ちも何も、うまくいかないって結果があるだけでね。
うまくいかないこともいいことも重なる。だから、落ち込んだりよろこんだりしてもしょうがないの。
下重さんは36歳の時に友人の民放のディレクターだった男性と結婚した。以後、家計は独立採算制を貫いている。
兄は結婚相手の家に住んでいたので、亡くなるまで母の面倒を見たという。軍人恩給の遺族年金があったが、十分ではなかった。朝は北海道、夜は九州で講演という過酷な仕事もしながら「毎日母に電話していた」と語る。
テレビでは少女時代における家族との対立に焦点が当てられ、その後の関係性がわからなかった。しかし「一度決めたことは必ず守る」と責任感を持ち、自分と母を養ってきたのだ。
一「物書きになる」と決意し、どんな小さな仕事でも断らなかったというのは本当ですか?
本当。ちょっとエッチな新聞とかスワッピング雑誌にも書いてたの。「物書きで生きていく」って決めたから。
一取材でバンジージャンプを飛んだり、ウーパールーパーやワニを食べたりしていた時代を思い出しました。
いいじゃない!いろいろなことをどんどんやった方がいいわ。
「何がなんでも絶対に物書きで生きていく」という、強い決意が感じられる Photograph by Hiroko Muto
NHKのアナウンサーや民放のキャスターを務めるなど、時代の最先端で活躍。夢だった作家に転身してベストセラーを連発する。「下重さんの経歴は華麗だな」と思っていた。ちょっとエッチな新聞やスワッピング雑誌でも書いていたとは!小さい仕事から1つひとつ積み重ねて今があるのだ。
「今でも悩みっぱなし!」
「自分がやりたいこと」と「食べるための仕事」の割合で悩んでいる人も多い。NHKのアナウンサーや民放のキャスター、作家と常に第一線で活躍してきた下重さんでも悩むことはあるのだろうか。
今でも悩みっぱなしよ!私だって「物書きになりたい」と思ってたけど、ずーっと喋る仕事で食べてきましたからね。完全に物書きだけで食べられるなんて、ごく最近の話ですよ。80歳ちょっと前に『家族という病』がベストセラーになって。
-ごく最近?!『群れない媚びないこうやって生きてきた』(海竜社)に「今まで書きたかった本はノンフィクションの4~5冊だけ」とありましたけど、本当ですか?
本当に書きたいものだけを書いて食べられているのは、日本で10人くらい。そのほかの人は食べるために・・・ちょっとね(笑)気のすすまないことも書いて。それで自分の書きたいものを書いて、生きているわけです。
これまでにも(書いた本が)ベストセラーなったこともあるのよ。でもそれは、元アナウンサーという肩書きでベストセラーになったの。それは自分でもちゃんとわかってるからね。
『ゆれる24歳-私に語ったOLたち』(サイマル出版会)はベストセラーになり、早大の先輩・山田太一さんの脚本で1981(昭和56)年に「想い出づくり。」という題でテレビドラマ化された
ノンフィクションの力作『鋼の女-最後の瞽女(ごぜ)・小林ハル』(集英社文庫)。新潟県に通い、3~4年かけて盲目の旅芸人・小林ハルさんの壮絶な人生を丹念に取材した。過酷な運命にも負けず、突き抜けた明るさで生き抜くハルさんは本当にロック。実際にハルさんが辿った道をすべて歩いた下重さんもロックだ
講演会でいろいろなところに行くけれど、来ている人は私のことを元NHKアナウンサー、テレビに出る人、および評論家、エッセイストみたいな感じで。私のことを“物書き”として知っている人は少なかった。 -そんなことないですよ!私は下重さんが元NHKアナウンサーだったと知らなかったんです。 あなたたちみたいな人って本当に最近です。とてもうれしいの! 肩書きなんて人がつけるものなんで、私はどうでもいいんですけど。でもやっぱり、自分が物書きで生きていると確かめられるのはいいわね。
2019(令和元)年11月13日に山形県鶴岡市で行われた講演会のパンフレット
講演会後のサイン会にて。大盛況でひたすらサインを書く(松宮撮影)
-本の依頼が来た時に企画は出しますか?
もちろん。でも大体世の中ね、1つ売れると似たような依頼が来るの。
似たようなものをやりたくないって言いますよ。だけどまったく違うようなものにはならない。でも私はおめでたいから、多分なんとかなると思ってますけど(笑)
-書けない時はどうしますか?
ふらふらっと散歩に行ったり。でも私、書き始めたら早いんですよ。書き下ろしで1冊大体1カ月くらい。というのはね、考えてる時間が長いから。今も連載だけで4つくらいあるんだけど。しょっちゅう題材考えてないといけないでしょう?取材で喋っている時もどこかなんとなく考えてる。
「一生懸命考えてるわけじゃなくて、いつもなんとなく頭の中にいるような感じ」 Photograph by Hiroko Muto
1967(昭和42)年のデビュー以来、約50年間にエッセイ・小説・ノンフィクションなど多様なジャンルの作品を書いてきた。文庫本や改訂版を合わせると100冊近くになる(写真はその一部)
「私だってまだ結果は出てないの」「すぐさま結果を求めちゃだめ!」
今後下重さんが一番やりたいことはなんだろうか。 一番やりたいのは詩。大学で近代詩を専門に学んでいたから、詩はずいぶん読んでいるのでね。でも「汚れつちまつた悲しみに(中原中也の詩)・・・」って、詩を書くのはもう汚れすぎちゃったかな?(笑)
-今だからこそ書ける詩もありますよ! (詩は)書いてるのよ。人には見せないだけで。
-見せてください!
いいえ、見せません!(笑)出版社の人もみんな言うのよ。でも自分でわかりますからね、書いていたらこれはまだダメだって。
やりたいことはまだ何もやってない!これからやりたいことがあるから、みんな生きているんだと思うのよ。
下重さんの詩に対する造詣の深さが伝わる『くちずさみたくなる名詩』(海竜社)。詩の解説やエピソード、想いが綴られた「ひとこと」がおもしろい
人間の礎となる品性について書いた『人間の品性』(新潮新書)。中でも印象的なのは、古きよき表現「臈(ろう)たけた」という言葉。“上品で洗練されているだけではなく、愁いや奥深さがありものがたりがあること”。「かつて自由がなく、葛藤しながら生きていた時代に臈たけた女性が多く存在していた」と下重さん
-Rockになりたいけど一歩を踏み出せない人にメッセージを!
そんなに簡単にいくわけじゃないんですよね。今はネットや携帯で調べればすぐに情報が出てくる。でもだからといって、すぐに結果が出ると思ったら大間違い。
私だってまだ結果は出てないの。すぐさま結果を求めちゃだめよ!
Photograph by Hiroko Muto
取材後記
2019年11月下旬から下重さんを追いかけて約8カ月。
原稿を執筆している時に疑問が沸くと電話で質問し、「本で読んだクモのアクセサリーをどうしても載せたい」「オリジナル(の写真)こそロック」と無理を言い、外出する数分前に撮影させてもらった。
デビュー作『もうひとりのあなたに』(大和書房)がどうしても手に入らず、下重さんに借りたことも。
(取材当時)連載を4つも抱える超売れっ子作家で忙しいにもかかわらず、何度も追加取材や撮影につき合ってくれた。「一度やると決めたことは責任を持つ」という、下重さんの生き方が表われていると思う。
「いろいろな下重さんが見たい」とエッセイ教室にもお邪魔した。1996(平成8)年より約25年も続く人気の教室だ。クラスでは生徒とフランクに話す、大学教授のような一面も。メディアで見るのとはまた違う姿だった。
クラスの前に話していた時のこと。
「自分のやりたいことや夢がいつか叶う」「そう思いながら生きるのが楽しい」「それで結局叶わなくてもいいと思ってるの」と言い、颯爽と去って行った。
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