偉大なる女性報道写真家の第一人者・笹本恒子さんとの出会いは数年前。
「いつか取材ができたらいいな」と思い、著作を読みまくる日々。
「Rockな人々」は立ち上げたばかりのウェブマガジンで記事もないし、知名度もない。
でもお会いしたい!
そこで勇気を出し、ダメ元で取材を申し込むと……
取材OK!自分で取材を申し込んだのにもかかわらず、予想外の返事に驚いてしまう。
まさか本当に実現できるとは!
取材当日。緊張しながら笹本さんが住む鎌倉のホームへ。
笹本さんがどのように「Rockな人」になったのか。まずはそのルーツに迫る!
笹本恒子 Tsuneko Sasamoto
1914(大正3)年、東京生まれ。現在の目黒駅(品川区)近くで育つ。成績優秀により授業料免除の特待生として入学した女子高等専門学校を退学後、画塾に通う。1940(昭和15)年、財団法人日本写真協会に入会。日本初の女性報道写真家として活動を開始。戦後、千葉新聞や婦人民主新聞社を経てフリーで活躍。その後、雑誌の廃刊が相次ぎ、写真業界から離れて服飾コンサルタントやフラワーデザイン講師に。1985(昭和60)年、約20年のブランクを経て71歳で開催した写真展が話題となり、写真家として復活。2011(平成23)年、第45回吉川英治文化賞、日本写真協会賞功労賞を受賞。2016(平成28)年 米国ルーシー賞を受賞。2018(平成30)年、東京都名誉都民に顕彰される。
公式HP: https://redrose0901.wixsite.com/tsunekosasamoto
◆意外にも「超人見知り」だった幼少期
―笹本さんはどんなお子さんだったんですか?
とにかくすごい引っ込み思案でした。
―えっ、意外ですね!未知(写真)の世界に飛び込んだ方なので、活発だったのかと思いました。
1歳ぐらいのこと。夏に母が私をかやの中に寝かせておいてね。で、訪ねて来た親戚が私に気づいて「あら、こんにちは。恒ちゃん起きてるんじゃない!」と言われると、また「わー!」って泣いていたそうです(笑)。
だからこんな仕事(報道写真家)をするなんて、思ってもいなかったの。
―人見知りが変わったきっかけはありますか。それとも人見知りだけど、ある局面になると「私は行くぞ!」みたいな……
そうそう。だけどやっぱり、(人の)側にいっちゃうとびびっちゃう・・・・・・。心構えだけはあるんだけど、行けない。だから写真家になって、人に会うのはとても大変でしたね。
“他人が思う自分”と“自分が思い描く自分像”が一致するとは限らない。人間にはさまざまな面があるのだ。
「子どものころ人見知りだった」という笹本さんは、家の中で遊ぶことが多かったのだろうか。
―子どものころは何をして遊んでましたか?
キューピーさんの洋服を作るのが大好きでね。女学校に入った時もそう。部屋に洋服を着たのがいっぱい並んでるの。母がそれを見て「この人は・・・・・・女学生だっていうのに」って呆れてね(笑)。それで、自分の洋服も作るようになっちゃった。後に洋裁学校にも行きましたから。あとは絵を描いたりね。
弟達とトンボやセミを取りに行ったり。外で遊ぶこともありました。
両親は“写真の道”を進むことになる笹本さんをどのように思っていたのだろうか。
「仏の清さん」と呼ばれた父と進歩的だった母
父の名前は清太郎っていうの。いつもニコニコしているから「仏の清さん」と呼ばれていました。田舎から出て来て番頭になって。共同経営で銀座に呉服店を出していました。子どものころは父の店の布をもらってきちゃあ、何かつくって。これがものづくりの原点ね。
―お父さんは日本画がお好きだったそうですね。
これは父の血ですね。父は床の間に速水御舟(ぎょしゅう)や堂本印象(いんしょう)の掛け軸を飾り、季節ごとに変えて。華道を稽古していたので、私が掛け軸の前に花を生けてました。
―カメラマンになると決めた時、お母さんが後押しをしてくれたそうですね。
そう、いろいろね。学はなかったけど、進歩的な人で。ほかの人は「女のくせにおてんばだ」って。でも、母と叔父(父の弟)は私に加勢してくれました。
―お母さんはとても理解があった方なんですね!
ええ。ある日、長かった髪をね、思い立って切ったの。当時女性の絵描きさんはみんなおかっぱだったの。スカーフを被って家に帰って「お母さん、怒る?怒る?」って。
そしたら「なんだか知らないけど、やっちゃったことを怒ったってしょうがないでしょう?」って。それでスカーフを脱いだら、母は「この人は・・・あきれた」って(笑)。
日本初の女性報道写真家に
女学校時代「男勝りだった」という笹本さんは成績トップ。1931(昭和6)年、卒業後は17歳で特待生(成績優秀だったため授業料は免除)として東京市ヶ谷の女子高等専門学校(現大学)に入学した。
だが、家政科の授業には興味が沸かず「絵を学びたい」と一カ月で退学。そして東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・小林万吾氏が主催する画塾「同舟舎美術研究所」に通い始める。
ある日、笹本さんは東京日日新聞(現毎日新聞)に務める父の知人・小坂新夫(しんぷ)氏に紹介され、同社でアルバイトとして紙面のカットを描くことに。
油絵を描きながらアルバイトをする日々。すると1939(昭和14)年、25歳の時に新たな出会いが訪れる。
小坂氏の元同僚・林謙一氏が新たに立ち上げた国外への宣伝機関「写真協会」の存在を知ったのだ。当時は日中戦争たけなわのころ。連日戦勝を祝う提灯行列などが行われていた。
「好奇心は人一倍あった」という笹本さんは小坂さんの話に興味を持ち、林さんの元へ。すると林さんは「日本初の女性報道写真家にならないか」「女性だけが撮れる写真があるはずだ」と誘った。
当時は戦争の影響で女性の比率が高く、“男一人にトラック一杯の女”と言われ、「早く娘を結婚させなければ売れ残る」という風潮があったという。しかし笹本さんは結婚にあまり興味がなく、「全身全霊を捧げる仕事がしたい」と思っていたそうだ。
両親には「小坂のおじさまの紹介で写真事務所を手伝う」と一晩かけて説得し、なんとか了承を得た。
現在でも、自分の意志を貫き通すのは難しい時かもしれない。だが、戦争中というこの時代に自分の意志を貫き通すのは、並大抵のことではないだろう。まさに“Rock魂”だ。
「閣下、失礼します」首相のネクタイを直して大騒動に!
―未知の世界・写真の世界に飛び込むことにためらいは?
ありましたよ、それはもう!とても大変でした。
写真についてまったく知識がなかった笹本さん。先輩の写真やグラフ誌をむさぶるように見て必死に学んだという。
―絵を描いていた経験が役に立ったことは?
ありますね。いきなり林さんにライカを渡されてね、「日比谷公園に行ってらっしゃい」って。現像した写真を見て「構図は大丈夫だ」と言われました。
先輩に同行し、当時の首相・平沼騎一郎氏を撮影した時のこと。秘書が首相のネクタイを直そうとしたが、かえって曲がってしまった。すると「閣下、失礼いたします」と自ら直したという武勇伝も!
―すごいですね!(笑)
当時は無我夢中だったのよ(笑)。みんなは「すごい度胸だ」とおもしろがって大騒ぎ!
―先輩はおもしろがってくれたんですね!
ええ。みんな仕事には厳しいけど、やさしい。仲間に恵まれました。
―写真業界は今よりも男性社会ですよね。「女性だから」と大変な思いをしたことはありますか?
むしろ女性だから得したことが多かったですよ。
ハプニング続出!報道写真は一発勝負
忙しくも充実した日々を送っていたが、働き始めて三カ月に母・わささんが発作を起こし休職。昭和15(1940)年にわささんが亡くなり、笹本さんは26歳で「写真協会」に入社して活動を開始した。
当時の撮影は“一発勝負”。カメラにはストロボがなく、室内などで撮影する際にはフラッシュバルブを使用していたが、発光しないことも。無事に発光してもシャッターと同調しなければ写真は真っ黒になり、使い物にならない。
シャッターチャンスを逃した時には海外視察団に英語で交渉し、再度握手をしてもらったこともあったとか!
―英語は学生の時に?
ええ、当時はめずらしかったわね。女学校時代にイギリス人のハーフの先生から習ったんです。
歴史的な瞬間に立ち会う:ヒットラーユーゲントを撮影
昭和15(1940)年、大阪の文学座で人形浄瑠璃を見学するヒットラーユーゲント(ナチスドイツの青少年団)を取材することになった笹本さん。撮影は幕間のロビーでのみ許された。しかし笹本さんのバルブは発光せず大ピンチ!
もうすぐ開幕の時間が迫っている。
さあ、どうする?
すると、他者のカメラマンが自分のカメラを差し出してくれたという。別日に英語を駆使し、ヒットラーユーゲントに交渉する笹本さんを見たカメラマンだった。
笹本さんはとても謙虚で決して愚痴を言わない人だ。女性がいない写真業界で大変なこともあったかもしれない。
しかし、真摯に写真と向き合い仕事に懸命に取り組む笹本さんの姿を見て「この娘はすごい!」と心を動かされた男性も多いのではないだろうか。
無念の退職
復帰して1年ほどで笹本さんは脚気になり、母が亡くなったという家庭の事情もあり退職。半年後に他社のカメラマンだった男性と結婚した。
―戦争中はどういう時代だったんでしょうか。
好きな人がいつ連れて行かれるかわからない、そういう時代。夫と話をしていても、犬がほえたり自転車の止まる音がすると、郵便屋さんが「召集令状を持ってきたのか」と黙っちゃう。招集されたら命がないって覚悟しないといけないから。
夫は招集されたけど、足を骨折して解除。2人で疎開先の千葉で終戦を迎えました。戦後は雑誌がたくさん創刊して忙しかった。夫はとてもやさしい人だったけど「自由になりたい」と離婚。本当に勝手でした。
写真業界から転身し、ピンチを乗り越える
60年安保闘争の後、相次いで雑誌が廃刊し、仕事が激減。笹本さんは再婚していたが、夫は先妻との子どもに学費を払う必要があった。そこで笹本さんは生活費を賄うため、1962(昭和37)年にオーダーサロンをオープンし、服飾コンサルタントに。当時はまだ既製服が少なく好評だった。しかし、3年ほどで経営は頭打ちに。
そのころ、生花をブーケやコサージュにアレンジするフラワーデザインが欧米から入ってきた。笹本さんが習うと口コミで声が掛かり、教えるようになったという。以後、ブームに乗り10年ほどフラワーデザイン講師に専念した。
71歳で写真業界に復帰
写真業界を離れて約20年。1984(昭和59)年、笹本さんは遠戚の協力により渋谷で写真展「昭和を彩った人たち」を開催し、71歳の時に復活を果たす。
―写真を離れている時、どういう気持ちでしたか?
それはやっぱり複雑でしたね。長い人生でいろいろありました。何度も「死んじゃおう」と思ったことも。でもね、前に進むしかない。
何度も困難に遭う度に英語や洋裁、フラワーデザインなど自分が学んだことを生かし、しなやかに乗り越えてきた笹本さん。「ニコニコするのは父譲りのクセ」と笑う。
―自分達も含めて「好きなことをしたい」と思いながらも、“あと一歩が踏み出せない”という人も多くいます。どうしたら“あと一歩”を踏み出せますか?
欲張りでないとだめね。いい意味で。「なにかをやりたい」“精神欲”っていうんでしょうか。とにかく何かを見つけてやりなさいってことね。
最初はできなくても少しずつ。いきなり大きなことはできないからね。
取材後記
実は「Rockな人々」で最初に取材を申し込んだのは、笹本さんだった。サイトも記事もないのに、取材を快諾してくれた度量の大きさ。本当に感謝の言葉もない。
笹本さんは理解者である母・わささんや写真協会を紹介してくれた知人、仕事仲間など環境に恵まれた面もあるかもしれない。しかし、それを生かすのも本人の勇気と行動力、継続的な努力があってこそだ。
取材前は「一体どんな方なのか」と思っていた笹本さん。実際にお会いすると、とても謙虚でエレガント、知的な魅力に溢れ、魅了された。
インタビューが終わり、笹本さんにお礼を言い立ち去ろうとすると「玄関まで……」と言い、車椅子を押そうとする姪御さんを断り、車椅子に乗ったまま自分の足で力強く歩き始めた。
建物を出て駐車場に向かう途中にふと振り返ると、笹本さんが1人でこちらを見ていた。手を振ると、振り返してくれた。姿が見えなくなるまで手を振ってくれた、その姿が忘れられない。
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